また増田に釣られ、無宗教と信仰心について書いてみた


仏僧
物議を醸す釣りだと解ってはいますが・・・
なんだかんだで「はてな匿名ダイヤリー」は記事を書くきっかけになる。
「私はカトリックで成人洗礼を受けたけども・・・」

生きるための信仰心

いかにも“特定の宗教を信仰してますよ”ってひとが信仰心が厚いとも思えないし、件の「はてな匿名ダイアリー」が、なにを基準に信仰心の有無を語っているのか意味不明です。
はっきり言って、信仰心アピール強すぎるひとこそ生きる目的とかを見失い、その教えよりも組織としての目的達成に固執してるように見える。
ほとんどの宗教が信仰心を持って生活すると、それが道徳的に正しいとされたり社会に有益な行動をとるようになっています。ただそれが、強迫観念や過度な終末思想によるものだと危険です。
終末思想とまでいかなくても「信仰心がなければ生きていけない」というのも本末転倒な話。本来は「どう生きていくか」が大切で、その生き方の一つとして信仰の自由があるのです。
『生きる』という大前提があって宗教があるのであって、特定宗教に対する信仰心は生きることに付随しているに過ぎません。
信仰心の有無は『生きる』という意思の後に付いてくるものであり、信仰心の無い者にも例外なく死は訪れるので、それぞれに死生観もある。

無宗教のむずかしさ

そもそも『無宗教』なんてのは、よほどの覚悟がなければ成立しません。
日本人などはよく無宗教が多いと言われますが、幼児の道徳教育のほとんどは仏教や迷信などが基盤となっており、そういった教育を受けた日本人は特定宗教に頼らずとも潜在的に独自の小さな宗教が心の中に存在している。
日本に限らず世界中の童話などは宗教的な要素が強く「ばちがあたる」という基本路線は万国共通でもあり、理屈では言い表せない道徳的観念も因果応報など宗教的な教えによって伝えられている。
積極的な信仰心を示さない者でも僧侶・神父を敬い、困ったことがあれば相談もする。当然、神社仏閣などの宗教施設や関連する仏具・神具への損壊行為などは「犯罪」以前に「ばちあたり」という認識は誰にでもある。信仰心がないようで無意識に心の宗教は働いている。
この無意識のうちの『心の宗教』にとらわれず『無宗教』として生きていける人間がこの日本にどれだけいるだろうか。
無論、宗教への冒涜や傍若無人な非道徳な行動が『無宗教』だと勘違いしている輩は論外である。

信じるということ

科学的には「ばち」の存在は証明できず非科学的。では科学者が無宗教かといえばそんなことはなく、なんらかの宗教を信仰し教えにそう行動をとっている。
科学の世界でも倫理観が度々議論になり、それはいつも「神の領域」という非科学的で実態はないが、事実として『心』に強く作用するものである。
宗教がその人の行動すべてをコントロールしているわけではなく、なにかの壁にぶつかったときに信仰心に基づいた判断をしているのです。
その信仰心による判断が最悪な結果をもたらしたり、到底承服できないものであればその宗教は廃れていきます。または宗教の皮を被った犯罪集団だったり。

誰が何を信じて行動しているか、その行動が宗教によるものかなんて簡単に区別できるものではありません。その区別ができないものが特定宗教を攻撃し、挙句の果てには戦争を起こし空爆で民間人まで殺すのです。

信じることを強要したり、証明を求めるのって無粋。
行動や言動で証明できない『信』って、あると思うんですよね。

それから・・・
神や仏に祈るのは、人間としてできることのすべてを尽くしたあと。
話しはそれからだ。

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