避難先での自販機破壊報道、憶測と可能性の羅列が招く被害にもご注意を【マガジン228号】

KSLマガジン



 1日に震度7を記録した石川県で、避難先として利用されていた県立穴水高校の自動販売機が破壊されたことが読売新聞によって報道された。当初は、震災に乗じた窃盗であるかのような報じられ方をしたが、その後に関係者などの証言から、売り上げ金の窃取目的ではなく緊急で飲料水を確保するためのものであったことが判明し読売新聞が説明もなく記事を取り消す事態となった。

 これを受けて読売新聞の報道姿勢と情報の不正確な部分が批判されたが、その一方で追加の報道では学校側と設置した事業者が「許可はしていない」として、警察に被害届を出すなど何が真実が状況が読み取れなくなっている。被害届に関しては保険などの手続き上の対応との見方が強いが、明らかな誤報であった読売新聞に対して、それを非難しつつ自販機を破壊しするに至った判断まで正当化していた側も根拠に乏しい憶測発信をしていたことになる。

憶測と可能性の取り扱い

 この問題の本質は緊急の対応として認められるか否かであるが、その本質を判断するにもある程度の情報が必要となる。必要な取材を怠り事件性だけを強調する読売新聞の当初の記事は論外として、それを批判していたネットの記事モドキはどうだったろうか?
 読売新聞の誤報を批判するだけにとどまらず、ネット上に転がる情報だけをかき集めて憶測と可能性を羅列し、それを「事実」であるかのように書き散らすことも読売新聞のやったことと大差はないだろう。憶測は憶測、可能性は可能性の域を出ないという前提がそこにあったとは思えない。

 社会で起こる問題に、憶測や可能性の言説が生まれるのは自然なことではあるが、憶測から可能性を探り、そのなかで確度の高いものに絞り込んでいくのが取材であり調査であるのだが、この過程をすべて記事に書き連ねるのはあまりにも危険だ。本来は公開前に切り捨てられるはずの可能性まで羅列してしまうと、それは即ち「大半が間違い」という記事になってしまう。捨てきれない可能性がギリギリ書けるラインであって、それ以外の憶測と可能性は関係者の名誉をいたずらに貶めるだけのものだ。

 極端な例を挙げると、事件において5人の関係者のうち犯人を絞り込めないままに、それぞれ5人の犯行の可能性を書き連ねれば4名は冤罪となる。書いている本人にすれば両論併記の公平性であったり、誤りを指摘されたときの保険であったりするのだろうが、そんなもので冤罪が許容されるわけもなく書き手の力不足、認識不足でしかない。

 こういった過ちが読売新聞を批判する側に散見された。

皆様の支援が必要です KSL-Live!からのお願い

【ご支援をお願いします】取材・調査・検証記事はコピペまとめサイトのような広告収入は期待できません。皆様からの支援が必要です。各種支援方法詳細

【運営・執筆】竹本てつじ【転載について

OFUSEで支援する

このサイトをフォローしよう