【検証】バッハ会長の広島訪問「広島県が依頼」「県が招いた」はデマ?警備費用負担を巡る論争、両者が事実誤認
国際オリンピック委員会(IOC)のバッハ会長が広島市を訪問した際の警備費用負担をIOC側が拒否し、県と市が折半して負担することの賛否を巡りネット上で論争が起きている。
まず、県と市が費用負担することに賛成する側の主張「広島県が招いた」「県が依頼した」というのはデマです。おそらく政治知新の記事を根拠にしているものと思われるが、出典として転載されている中国新聞に「県はここ2年以上、バッハ会長の広島訪問をIOCに働き掛けてきた」と書かれてはいるが、これは依頼したわけでも招いたわけでもなく、広島県と広島市のスタンスとしてことあるごとに影響力のある著名人やリーダーに呼び掛けているメッセージであり、事実として県や市とは関係なくバッハ会長が広島訪問を望み、発表された際に県はIOCから連絡を受けておらず報道を通じて把握している。オバマ大統領やローマ教皇の訪問も呼び掛けてはいたが、広島県が招いたり、それに応じたものではない。2年前からというのもデタラメで、世界のリーダーにはずっと前から訪問を呼び掛けている。
一方で、自治体の費用負担に反対する側の主張「勝手に来た」も不正確で、前述の通り招待した事実はないが"歓迎"して迎えているので、県と市が迷惑していたという事実はありません。また、新型コロナ感染拡大を受けて歓迎から反対に転じたという事実もなく、湯崎英彦知事は来広について「大きな意義があった」と記者会見で語っている。
記者会見を振り返れば見えてくる
広島市の松井市長と湯崎県知事の記者会見を振り返ってみると、やはり招いたり依頼したという発言はまったくなく、バッハ会長が自ら来広を要望したことを歓迎し受け入れる側のスタンスである。一方で、断ったのに「勝手に来た」ということは到底ありえないこともわかる。
まず、広島市に関してはバッハ会長の訪問については関与していません。記者会見での松井市長の発言を見ても主催者側と取れるようなスタンスではありません。
2018年12月20日記者会見(二期目の任期最終年を振り返って)
そこで、そうは言いながら国際情勢、なかなか皆様御存じのように、ロシアやアメリカといった中での動きをみるとですね、決してそういう方向に進んでいるとは多くの方は受止められない状況にあるということも、また現時点ありますので、そこで今申し上げた市民ベースの思いを、逆に国家という裃を着ない形で考える、そういう環境作りを今言った形でしながら、もう一度、この思いを発信していただける、その著名人といいますか、影響力がある方に広島に来ていただいて、この広島の地から有効なメッセージを発信していただく。そのために被爆地訪問を、「迎える平和」ということをやっているということでありまして、そんな中で、ローマ法王も日本に来る折に、じゃあ広島、長崎にということをようやく言っていただける状況ができたかなと思いますしね。そして2020年のオリンピックのときには、オリンピックは平和の祭典ということで認識されておりますから、例えばバッハIOC会長なども広島に来ていただくということを、できないかということも今やっていると、そんな状況であります。
これ以降、広島市がバッハ会長を招くために何か動いたという記録はなく、やはりローマ教皇と同じように多くの著名人・リーダーに行っている働きかけと同レベルの話だ。松井市長の「迎える平和」という言葉は重要なキーワードです。
2020年3月25日記者会見(五輪延期決定報道の翌日)
聖火リレーの方は、もう中止というふうな話を聞いています。これに向けて、いろいろ準備をしていただいている方々に本当に残念だと思うのですけれども、やむ方ないということかと思いますね。実際、広島の陸を走る予定のほかに川を渡るというようなことも、原爆ドームの前も入れて、聖火リレースタートのときにも、バッハ会長に来ていただいてということで、平和とオリンピックというのを非常に相性がいいから、そういう意味で、ヒロシマの心を発信する絶好の機会ということで受け止めておったのですけれども、多分、延期ということになれば、それを次の機会に持ち越すということでなくなる。ですから、ここに向けて準備をしていただいていた皆さんに本当に申し訳ないと思うのですけれども、こういう事態であることを何とぞ御了解いただいて、延期後の次の機会に、しっかりと思いを発していただくようにしていただければというふうに思っています。
この時点でバッハ会長が自ら広島訪問を希望しているという報道がなされていたが、聖火リレーの準備を進める過程でバッハ会長を迎える準備はしているが具体的に市が把握して主導しているわけではない。
続いて広島県の湯崎知事の会見ですが、やはり県として招いたのではなく"歓迎"と"期待"というスタンスである。ある意味で松井市長よりも分かりやすい。
2019年7月2日記者会見(聖火リレーについて)
(中国新聞)
中国新聞の木原です。五輪の関連で,〔IOCの〕バッハ会長が聖火リレーで広島に,聖火リレーで広島を訪問する,聖火リレーの機会を捉えてですね。それについて受け止めをいただければと思います。(答)
バッハ会長のご希望というのは,以前から伝わってきているところもありまして,我々としても,ぜひ,この聖火リレーを機に訪問いただけるのであれば,歓迎したいと思っておりますし,ぜひ,それが実現していただきたいなと思っています。特にオリンピックが持つ,平和であるとか,あるいは聖火の一体性というのですか,人類の一体性というか,そういうものを広島の人と発信したいとおっしゃっていると聞いていますので,そういうメッセージをオリンピック〔組織委員会〕,IOCとしても出していただけるとすれば,これは願ってもないことだと思います。それから会長ご自身で,この広島に来て,被爆の実相に触れていただくということも非常に意義の高いことだと思いますし,この8月6日あるいは8月9日がオリンピックの開催期間中でもありますので,そういったことの意味というのもバッハ会長にご理解いただける機会になるのではないかなと期待しております。
完全にバッハ会長の希望が主体、歓迎と期待の気持ちが溢れている。知事の「実現していただきたい」「訪問いただけるのであれば,歓迎したい」という発言から、県が計画して動いている様子はない。
2020年2月20日広島県議会2月定例会(令和2年度主要施策の概要)
また、5月に県内で開催されるオリンピック聖火リレーにつきましては、先日、国際オリンピック委員会のバッハ会長の広島訪問が発表され、一層の盛り上がりと、これを契機に広島の平和への願いが全世界へ伝わることが期待されることから、大会組織委員会や市町等と連携し、実施に向けた準備を着実に進めてまいります。
この発言は五輪延期決定前で、延期後の聖火リレーでもバッハ会長の訪問は実現していない。だが、ここで知事が「大会組織委員会や市町等と連携し、実施に向けた準備を着実に進めてまいります」と発言していることは、費用負担の是非を問う論争では重要なポイントになりそうだ。少なくとも「勝手に来た」という暴論は通用しない。
追記:ここでいう「計画」とは聖火リレーのことで、バッハ会長の招待ではない。ただしバッハ会長が来る前提で迎える準備はしていたということ。
2021年4月20日知事記者会見(バッハ会長の広島訪問に関する報道について)
(幹事社:共同通信)
報道によるとIOCのバッハ会長が,広島市の聖火リレーの関連式典にあわせて広島を訪れるとのことですが,バッハ会長にどのような発信を期待されますでしょうか。知事の受け止めをお願いします。(答)
訪日の意向は承知しているところでありまして,〔バッハ会長が〕式典に参加されることが決まれば,それは大変喜ばしいことだと思います。まだ正式には何もご連絡はありませんので,〔参加されるかどうか〕わかりませんけれども,我々もさまざまな機会を通じてバッハ会長に広島にお越しいただくように要望してきたところでありますので,県民を代表して,もし〔バッハ会長が広島に〕いらっしゃるのであれば,心から歓迎の意を申し上げたいと思います。世界がコロナ対策に追われて,核軍縮問題への関心がやや陰に隠れてしまっているような中で,バッハ会長には,ここ広島から世界に向けて,核兵器のない平和な世界の実現に向けたメッセージを発信していただければと思います。オリンピック・パラリンピック期間中にNPT運用検討会議の開催が予定されていまして,また来年1月には核兵器禁止条約の締約国会議なども予定されています。こういった機会を捉えて,我々も,核兵器のない平和な国際社会の実現に向けて,飛躍的に賛同者を拡大して,また今後の具体的な取組に繋がるように取り組んでいきたいと考えているところです。
訪日の意向は承知しているが、正式には何も連絡がないと。広島訪問を要望してきたことは明かしているが、知事の「いらっしゃるのであれば,心から歓迎」という発言からは、どう考えても広島県が招いたことで実現したとはとれない。
2021年5月11日知事記者会見(聖火リレーについて)
(NHK)
NHKの五十嵐です。聖火リレーにあわせて来日が調整されていたIOCのバッハ会長の来日が延期されたことについてなのですが,あらためて知事としてどのように受け止めていますか。(答)
今回,バッハ会長が来日されるというのは広島に来られたいというところが大きかったと聞いておりますので,それが実現しなかったというのは非常に残念なことであります。ただ,国内外で新型コロナウイルスがまだ〔感染〕拡大しているという状況に鑑みれば,やむを得ない,致し方ないと受け止めております。ただ,今後,また来日の機会もあると思いますので,そういった時にぜひ広島を訪問していただいて,被爆の実相に触れて,核兵器のない平和な世界の実現に向けてメッセージを発信していただきたいということは,引き続きお願いしたいというか,そういった期待をしたいと思っています。
これはバッハ会長の5月来日が中止になった際の会見ですが、知事は「引き続きお願いしたいというか,そういった期待をしたいと思っています。」と表現しており、広島に来てほしいという思いはあるが、県として何かを主催するというものではない。
2021年7月20日知事記者会見(バッハ会長の来広について)
(共同通信)
共同通信の平等です。先週の金曜日にIOCのバッハ会長が広島を訪問されました。バッハ会長はその後,東京に戻っての記者会見で,被爆者代表からオリンピック開催の支持をもらったというような発言もありました。当日も知事はぶら下がり〔取材〕で受け止めを語られていましたけれど,〔バッハ会長の〕この発言も踏まえて,今回の訪問〔について〕どのような意義があったと思われるか,またバッハ会長のこの発言についてどういうふうに思われるか,受け止めをお伺いしたいのですが,いかがでしょうか。(答)
〔バッハ会長と面談した被爆者の〕梶矢さんがオリンピック成功を祈ると,頑張ってほしいとおっしゃったのは事実なので,その事実に基づいて〔バッハ会長は〕おっしゃったのだと思います。訪問の意義というのは,繰り返し申し上げているように,我々は世界中の人々に〔被爆地に〕来ていただきたいのですけれども,特にリーダーになるような方々には,被爆地を訪問して,そして被爆の実相をしっかりと実感していただいて,その上で,それを他の人と共有してほしいし,平和であるとか,あるいは核兵器廃絶に向けた確信を持ってほしいと言っているところです。もちろん,そのメッセージを,自分が感じたこととか,あるいは平和へのメッセージを発信したりとか,あるいは,周囲の皆さん,影響力のある方々に伝えてほしいと申し上げてきているところです。ですから,そういう観点から言うと,〔バッハ会長は〕まさに非常に強い印象を受けて,人間としての感覚というか感情的な部分というものを持っていただいたところなので,それをまた,周囲の皆さんに伝えていただけるということは,期待できるのではないかと思っています。そういう意味で大きな意義があったと思っています。
この湯崎知事の発言から「勝手に来た」と読み取れる人はいないでしょう。一方で"要望"とは世界のリーダーらに広島訪問を呼び掛けている一環であって、広島県が主体となって個別にバッハ会長を招いたものではないことがわかる。
まとめ 双方が事実誤認
まず「勝手に来た」という暴論は、これまでの広島の平和に対する取り組み「迎える平和」と世界のリーダーとの協調を目指す考えを冒涜するもので、まったくもって受け入れられるものではない。県知事と市長の会見を見ても、そのスタンスは明確で、新型コロナ感染拡大後も、なんとか広島訪問を実現してほしいという思いが伝わってくる。
一方で、政治知新の記事がもとになった「広島県が招いた」「県が依頼した」というのも事実誤認で、広島県も広島市もあらゆるリーダーに広島訪問を呼び掛けているが、あくまで相手側が希望すれば歓迎するというスタンスであって、儀礼的にも失礼に当たるので「呼んだ」という構えはせず、自発的に訪問したVIPを讃えるという考え方だ。また、市も県も公式な行事としてホームページやSNSで報告しておらず、立ち入り規制の告知のみだ。
このあたり広島独特の「迎える平和」という微妙な平和へのスタンスは長く住んでる者にしか理解できないのかもしれない。フジテレビで広島市民が怒っているという街頭インタビューがあったが、申し訳ないがあの場所でテレビカメラを向けられて受け入れる人は「何か言いたい特殊なひと」であって、あれが世論と思ってはいけない。テレビの街頭インタビューは事前に撮影と放送の承諾を取るわけだが、その時点で物申したい人以外はだいたい断る。賛成も反対も偏った人しか登場しないのはそのためだ。
いずれにしても双方が事実誤認で、警備費用負担の是非もそう単純な話ではない。IOCがまったく負担しないのもどうかと思うが、騒ぐだけの一部左翼を恐れて勝手に警備を強化したのは自治体側で、IOCにしたら「知らんがな」という気持ちもわかる。警備費用負担の是非を論争するなら、せめて事実関係は確認してからにしてほしい。
県側が主催者として支払うというのもデマ、バッハ会長が反対を押し切って勝手に来たというのもデマなのだから。
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